迷える羊

STRAY SHEEPと言えば、わたしにとっては夏目漱石先生の書かれた「三四郎」である。最後の最後に三四郎は「Stray Sheep、Stray Sheep」とつぶやいてさまよい歩く。わたしにとってPity is akin to love.はまさに三四郎のことだ。

わたしは夏目漱石の「三四郎」、森鴎外「青年」そしてヴォルテールの「カンディード」を世界三大童貞小説と呼んでいる。って、わたしが勝手に言っているだけだが。この3つの小説の中で、最後まで童貞なのは三四郎だけである。三四郎の真面目で奥手でぐずったらしくて意気地のないところは、おそらく多くの人の共感を呼び覚ますと思う。うおおおお~そうだった、そうだった、わたしも、僕も、こういう感じだった~~~ああああ、恥ずかしすぎる~という悶えるダサさを三四郎は持ち合わせている。勝手に都会のこじゃれたお姉ちゃんを好きになり、歯牙にもひっかけられていないのに勝手にきりきり舞いして、勝手に振り回されて、勝手に失恋するのである。でもこの感じ、わかる、わかるわ~というのが漱石先生のうまさである。

これに対して「青年」の主人公小泉純一君は、かわいげがない。まあ、すかしていやがる。三四郎と同じように東京に出てきた田舎のちょっとお勉強ができる、そこそこいいおうちの若造だが、三四郎のように東京帝国大学でせっせとお勉強するでもなく、進学もせずニートである。金はある、オレ、頭いいし、別に大学行ってもいいけど?と斜に構えてサロンみたいなところに首を突っ込んで暇つぶしをするような奴で、どうにもかわいくない。鴎外先生の悪い癖で、作品中に英語、フランス語、ドイツ語の単語がちりばめられて、ちょくちょく注釈でつづり間違いと指摘されていたりして、ルー大柴的な「ミーとトゥギャザーしようぜ」みたいなしょうもない西洋かぶれを披露するのが、また、それが小泉君そのものに感じられて主人公にシンパシーを寄せられない。早々に男爵だか子爵だかの嫁とねんごろになって童貞卒業するのも気に入らん。そして一番悪いのは鴎外先生なのだが、箱根にこの人妻に呼び出されてのこのこやってきた小泉君は、けんもほろろに人妻に袖にされるのだが、その傷心の小泉君が汽車に乗って箱根を離れたところで小説は突然終わりを告げる。その終わり方がひどすぎて、わたしはあまりのことに、落丁???あれ?この本、不良品?と引っ付いていないページを引っ剥がそうとしたほどで、本当に最後がひどい。漱石先生の作品のように後世に伝わっていない理由がよくわかるほどひどい終わり方で、生きていたら鴎外を呼び出して小一時間問い詰めたい気分になるほどである。「おう、ちょ、来いや、鴎外。てか林太郎。てめーなめてんのか、あ?」とゴロツキみたいに絡みたくなるのである。それらすべてが絡み合って、「小泉純一、名前もなんかモヤッとするが、それはともかく、ムカつく!!」という読後の感想を抱く羽目になる。それにしても、鴎外先生、何なの?ほんとに。田舎から出てきた頭でっかちのすかしたヤな奴小泉君が、都会でどっかの嫁はんに振り回されて童貞卒業をするものの、それ以上の童貞卒業にならないあたりは興味深いが、とにかく最後がひどい。

ヴォルテールは18世紀の思想家、ジャーナリスト、学者である知識人で、その人が書いた所謂ビルドゥングス小説というのかな?成長譚ともいうべき「カンディード」は、IQ180越えだったのではと言われたヴォルテールらしい、先進的な考え方であふれた素敵なお話である。ストーリー自体は単純で、あらすじ書きのような小説ではあるが、最後の「それでも僕たちは庭を耕さなければなりません」というカンディードのセリフもグッとくるし、その前にキュネゴンドとちゃんと初心貫徹結婚するあたりも素晴らしい。あの頃の価値観であれば、処女の若くて美しい女をいくらでもめとることができるカンディードが、なんでそんなことしなきゃいけないのさ?と言わんばかりの態度で当然のごとく初恋の人、すっかりババアになって太ってみっともなくなって、がみがみおばさんになったキュネンゴンドにプロポーズするのは素晴らしい。21世紀になってもいまだに処女信仰、若くてかわいい己の言うことを聞く女を求める男が数多い中で、あの時代にそれを否定するヴォルテール、さすが知識人である。童貞で夢見がちでふわふわしたカンディードが、世界中を逃げたり戦ったりしている間にいつの間に童貞じゃなくなったのかは知らないが、地に足をつけ家族や社会というか共同体の人たちと生きて行こうとする姿は素晴らしい。自分では決して畑を耕したことなんかない知識人ヴォルテールが、もう冒険は終わりとばかりに、土地を耕して生きて行こうと主人公に言わせるのはすごいことだと思う。

迷える羊とは童貞のことである。永遠の童貞である三四郎が、やっぱり一番愛おしい。自分の恥ずかしい所を見せられているような、だから鬱陶しくてウザいのだが、でもそこがまた愛おしい、そんな気がする。堂々と迷え三四郎。迷いのなくなった童貞卒業のカンディードに憧憬と眩しさを感じつつも、心は三四郎にある。