白って200色あるなら、ピンクとか青とかグレーという白もあるんだろうなー

未だに中学や高校の規則に、「下着は白」というアホくさいルールが制定されていると聞いて笑っている。だって、何色かわかんないじゃん。下着姿で登校するわけじゃあるまいし。制服着ているのにわかるのかよ。お前、通販で昔売っていた服が透けて見える!というナントカスコープでも買ったんかよ。

わたしが中高生の頃にも、生徒手帳にそのルール、あった。あったけど、一度もチェックされたことはない。特に気にも留めずピンク色のパンツとかミントグリーンのブラをしていたが、バレたことも何か言われたことも全くない。先生もそこを取り締まる気はなかったようで、問われたことすらない。じゃあなんでそんな規則があるのかというと、おそらく、人にあーしろ、こーしろと指図されないと、自分で考えて行動できない足りない子ちゃんが世間には思っているより多くいるから、その人たちのために、「自分で判断できないのなら白にしておけ」と書き記してくれているのである。昔は白とかなんかくすんだ色の布しか手に入らないから、敢えて記載する必要もなかっただろうけど、近年、カラフルなものが、かわいいものが、デコラティブなものが手軽に手に入るようになった。そうなると、何を選んでいいのかわからない足りない子ちゃんにとっては、あの規則はとてもありがたいアドバイスなのである。悩むなら白にしておけばいいんじゃね?という親切で学校側は記しているのである。通常の発達を遂げていれば、「白い方が透けて見えていやらしい感じになったりするのよね」とか、「白い色は汚れが目立ちやすいから清潔さを保つ指針になる反面、どうでもいいことまで目立つから、ちょっと色がついている方がいいのよ」とか、「グレーでコットンというのが一番色気が無くて、無難で、ティーンの女の子で色気を醸し出したくない子にはぴったりなのよね。白ってスケベなオッサンが喜びがち」とわかっている。だから親も子も、自分の好みやライフスタイルに合わせて、適当に白じゃないものを選んだりする。白にしろと指示していただかなくても大丈夫なのである。でもって白が良ければ白を選ぶし。

それを真に受けて、白じゃない下着を着用していないだろうな?とチェックする先生がいるとしたら、その先生こそがその足りない子ちゃんなので、指導が必要である。あれは「お前ら、守れよ!」という規則じゃなくて、「悩んだり困ったらこうしておきなさい」というアドバイスじゃっつーの。

わたしは昭和後期のがちがちの管理教育を受け、子供の数が多かったから「お前らの代わりなんかいくらでもいるから、お前ら一匹ぐらい死んでも誰も困らんわ!」という扱いを受けて育ったが、誰一人、下着の色のチェックをする足りない子先生はいなかった。そしてそんな話、聞いたこともなかった。もし本当に下着の色をチェックする先生がいたとしたらその人は足りない子ちゃんなので、児童、生徒、親権者の皆さんは生温かい目で見守って、何なら良い病院を紹介してあげてください。もしかしたら足りない子ちゃんじゃなくてロリコン変態教師かもしれないですが。その場合は警察に通報。

自分が子供の頃、大人は何でも知っていて賢いから子供のわたしたちを怒鳴り、どつき、バカにしていたのだと思っていたけど、大人になって気づく。ああ、大人って、図体が子供よりでかいだけで、中身はアレなんだなーということに。そんな人たちのために学校側が親切で書いてやった規則を真に受けて、本気で検査する教育関係者がいるとは思わなかったーと、制定した関係者は今頃草葉の陰で泣いておるだろうよ。

生徒のパンツの色が黒かろうと白かろうと、どうでもいい。そこ、まったく大事じゃない。パンツも履かせてもらえない子がいたとしたらそれこそ問題だけど、色とか柄はどーでもいい。その区別や判断ができない時点で、教育機関こそが足りない子ちゃんだったということが判明してしまって、本当にもう、世も末。

うっかり暮らしましたとさ、めでたしめでたし

好事魔多し、という言葉が頭をよぎった。

ここんところずーっと大谷翔平さんの快進撃が報道されていて、すごい契約金で移籍したとか、かわいい素敵な人と結婚したとか、何かするたび大騒ぎ。何にもしなくても大騒ぎ。結婚相手が女子アナじゃなくてよかったと変なところに爆弾が落ち、もらい事故の女子アナには日本国民の多くが大爆笑するなど、連日大騒ぎ。あまりテレビを見ないわたしにも聞こえてくる大谷翔平さんのお名前。でもすべてが肯定的で、幸せで、いいお話だったと思う。グローブを小学校にプレゼントしたとか、だっけ。あれでも校長が独り占めしようとしたとかしないとかで大騒ぎ、またしても名前が連呼され、とりあえず落ち着け、みんな落ち着け!

そんな中にネガティブな大事件が起きて、また大谷さんのお名前が連呼されるようになってしまった。スターというのはそっとしておいてはもらえないのね、おそらく。だってわたし、ずっとそっとしておいてもらってますもん。大事件の本当のところはわたしにはさっぱりわからないし、どうも大谷さん自身は関与していないみたいなのに、大谷さんの名前は呼ばれ続ける。ほんの少しかすっただけでも許されないような空気が漂い、他人事ながら怖い。この世は怖いモノだらけなのに、たった80年程度の短い人生なのに、うっかり要らんものに手を出してしまううっかりな瞬間があるのだから、人間ってうっかりさん。わたしはうっかりはしないが、ぼーっとしている。常にぼーっとしていたらうっかり!何十年も経過していたけどね。

また別の方面にうっかりしていると、健康食品とか壺とか印鑑とか数珠とか地球にやさしい洗剤とかを持ち込む者あり。あるいは来世とか前世とか生まれ変わりとか言ってくる電波系の者あり。本当にうっかりしていたらうっかりするのである。

ま、すべては死んだらチャラになるのでOKなんですけどね。

死ぬ間際に、きっと、ああ、これでゆっくりできるわー、うっかりしても大丈夫ーと思うのである。めでたし、めでたし。

傍観者

イジメは実際に行っていた者だけではなく、傍観していた者も同罪だという風潮が、自分には納得いっていない。

子供にそこまでの責任を負わせるのはいかがなものだろうか。

わたしは自分が通っていた小学校や中学校で、学校内やクラスでイジメがまったくなかったとは思わないが、気が付かないで過ごした。それほど大きなイジメなんてあったかな?ぐらいで、ぽつぽつとあったようだったけど、特に気に留めず過ごしていた。男の子同士の争いごとはさっぱりわからなくて、イジメなのかじゃれてプロレスごっこなのか、まったくわからなかった。女の子同士もそうで、喧嘩して合意の上絶縁したのか、一方的に無視して仲間外れにしたのかどうかなんて、どうやって判断しろというのだろうか。小さな小競り合いは常に生じている学校内で、8歳とか13歳のわたしは、どこまで責任を取る必要があるのだろうか?

一度、小学3年生ぐらいの時に、「気持ち悪い」「汚い」「○○菌」と言ってクラスのほぼ全員からばい菌扱いされていた女の子をかばって、「こういうことを言うのってよくないと思う」と、帰りの会で偉そうに発言したことがある。そしたら当人の、その女の子に「余計なことを言わないでほしい」と言われた。今思うと本当に稚拙で申し訳ないことをしたと思う。善意で行った発言だが、何の方策も示さないで、裏で誰かに手を回すこともなく、思い付きで発言した己を恥じたのだけど、まったくもって余計なことである。傍観者が罪ならばわたしは善行を積んだと言えるはずだが、結果は余計な真似であったというオチ。

傍観している者もまたイジメをしているのと同じと言われると、人の言動行動を逐一観察し、考察し、しかるべきところに通報しないといけないわけで、それってまた違う意味で怖くないかな?と思うのである。クラス内の出来事ですら、45人ぐらい児童や生徒がいれば気づかなかった、知らなかったという子がいるのは当然だと思う。自分も、小学一年の時の隣の席の男の子に標的にされて、指や腕をねじり上げられて痛い思いをさせられたことを覚えているし、小学四年の時にとても太っていて体の大きな男子に目をつけらて、一時期、ずっとどつかれたり後ろから突飛ばされたり蹴とばされたりしていたこともあった。あれはイジメの一種と言えるのだろうけど、「参ったな。どうしよう」とは思ったものの、親や先生に相談するということは一切しなかった。大人は信用ならないからであるが、だからって、他の友達が助けてくれないことを恨んだこともなかった。だってみんなにとっては関係ないことなのだから。どついてくるのはその子、どつかれているのはわたし。それ以外の人は関係者ではないと思っていたからである。

あの時、友達はわたしが後ろから蹴り飛ばされているのを見ていたものの助けてはくれなかったが、当たり前だと思っていたし、今でもそう思う。太ったでかい上に暴力的な男子に立ち向かえる子なんて、いるだろうか?逆の立場だったとして、わたしが彼に向って行ったとは思えないし、先生に言うのは何やらチクりのようで気が咎めるのが子供の常識だ。わたしに対する暴力は一過性のもので、2,3ヵ月ぐらいで終わった。飽きてきて違う子をどつき始めたのか、いくらどついても泣かないし、面白い反応もしないで無視するわたしがつまらなくなったのか知らんが、わたしに対する暴力がなくなったので、わたしも済んだことと流した。わたしの次に誰かがどつかれていたと推測されるが、わたしはついこの前まで被害者だったくせに次の被害者が誰になったのか気づいていなかったし、わたし以外の人がそのデブから何か嫌な目に遭わされていたかどうかも全く思い出せない。それは罪なのだろうか?

自分のことは自分がどうにかしないといけないのは、たとえ5歳児でも10歳児でも50歳児でも同じだと思う。ただ、子供は判断力や行動力が十分でないし、対応の仕方もよくわからないだろうから、大人が目配り気配りしてやる必要がある。第一義的にその役目に当たるのは親で、その次は担任の教師であろうが、クラスメートにそれを負わせるのは違うだろう。

イジメられていた人が、傍観していたクラスメートも同罪だと思うとたまにおっしゃっているが、それは逆恨みではなかろうか。にやにや笑いながら見ていたクラスメートを恨む気持ちは理解できないことはないが、同罪というのは言い過ぎであると思う。まして気づいていなかったクラスメートまで同罪と言われたら、それはもうヤクザの言いがかりレベル。気づいてはいたがただ傍観していた人を同罪というのも、やはり無茶であろう。わたしはとても仲のいい子が、わたしが階段で突飛ばされて下の踊り場まで吹っ飛んでいった(が着地は成功したのでケガはなし)のを見て爆笑して、「あの格好ったらないわ~~マジウケる~~~」と数日間ネタにしてみんなに言いふらしてみんなで大笑いしていたのを覚えているが、恨んではいないし、彼女もまた同罪だとか悪いとか思ったことはない。わたしは死ぬかなと一瞬思うほど怖かったけど、彼女の眼には面白いものとして映ったのだろうからしょうがない。突飛ばした男の子が悪い、あいつがクソとは思ったけど、笑った子のことは呆れはするけど(そこまで笑うかよ、という意味で)、やらかした当人ではないので責めることはできないというのがわたしの感想である。

わたしが受けた暴力はたいしたことがなかったのだろうけど(程度も期間も)、運が悪いともっと悪質なイジメに遭って、本当に大変なことになってしまう。大事なのは、大人に助けを求めても良いということを子供に教えることと、身近な大人が信頼たり得る人物であるという関係性を子供と築いておくことだと考える。そして信頼できる大人として大人が全うな行動ができることが大事で、子供にいろいろ責任を負わせるのは違うなあと思うのである。わたしはたまたまイジメは長く続かなかったし、他の友達とは仲良く楽しく過ごせていたのでそれほどダメージはなかったが、うちの親は全く信用に値しなかったので、運が悪ければ死ぬほど大怪我を負わされるまでどつかれていたんだろうなと想像する。先生に至ってはもう、ね。言うだけ無駄というか、報告した方が損すると幼いわたしが判断する程度の信頼度。無駄無駄無駄無駄!

自分の子がひどいイジメに遭っていても気づかない親に責任はなくて、傍観していたクラスメートの方はいじめっ子と同罪というのは、やはり行き過ぎであろう。自分の親を否定したくないという身内をかばう心で、傍観していたクラスメートに罪を負わせたくなるのだろうけど、それは逆恨み。自分の子がものすごいイジメを受けていても気づかない親がボンクラで、何も方策を打ち出さない親がマヌケである。保護者でもなんでもない赤の他人で、おまけに未成年者である傍観者に責めを負わせるのは広げすぎだ。手を出していない、教唆していない、煽っていないクラスメートを恨むのはお門違いだ。見て見ぬふりをしていたのではなくて、怖くておびえていたり、どうしていいのかわからず悩んでいたのかもしれないのに。

一番悪いのはイジメをした奴、そして教室内の出来事であれば管理していない教師、子供の様子に気づいていない親、子供がSOSを出せないようなレベルの親であることが問題。子供にその責めを負わすことは、やはり同意しかねる。優等生な発言は結構だが、無力な子供に擦り付けるのはやり過ぎだと、やはり思う。

イジメはなくなることはないので、イジメをしたら損するという構図を作るべきだと思う。今はイジメたやつ勝ち。バレても特に罰も受けないでのうのうと過ごすことができ、イジメられた方が転校したり、あるいは不登校になったりして損するだけで終わる。そして、イジメがしたくてたまらない頭のおかしい人は一定数いる。いることを前提に法を整備した方がいいと思う。ひどいイジメをしたやつは死刑でもいいかもよ。そして親や先生が信頼たり得る存在になること。これが一番難しいのだけどね。

パンツは履いとけ

小一の頃だと思うが、ランドセル背負って学校に行ったがスカートもパンツも履くのを忘れていた、という夢を見た。何とかしてみんなにばれないようにこそこそしていたのだが、意外にバレなくて(下半身すっぽんぽんなのにバレないってことあるの?)今のところ大丈夫じゃん!という夢だった。それ以降、何年かに一度、パンツを履いていないという夢を見る。

あ、ワンピースの下にパンツ履いてくるの忘れちゃった、まあいいか、ワンピ着ているからバレないしーという夢とかはよく見る。スース―した感じがリアルだが夢だ。先日は、パンツ(下着の。しかもちっさいパンツ)は履いているがパンツだけでトップレス、靴も履かずに街を歩いている夢を見た。夢の中のわたしはカリカリに痩せていて中性的で、ほんのすこししか胸のふくらみもなく、髪もベリーショートであった。夢の中でわたしはパリにいて、これから上野に行かなきゃいけないのよねーと駅へ急いでいた。そして、「上野に行くから着なければいけない」とチビTを着た。パリではトップレスOKで、上野ではダメというのがヘンな感じ。どっちもダメだろう。

夢っていつもヘンな感じだ。取り留めもないし、意味もないし、落ちもないし。そんな変な夢を見てびっくりして起きたら、遅刻しそうな時間だった。あぶね、あぶね。

波乱の幕開け

秋ごろ郵便料金がグッと値上がりするらしい。封書84円が110円という値上げの仕方を見るに、日本郵便はもう郵便配達事業に未来はないから捨てるつもりなんだろう。ただでさえ手紙離れが進んでいるのに、いきなり110円にしたらもっと拒否反応を示すだろうということは安易に想像できる。もう物流の方に舵を切るつもりかと思われるが、まあ、好きにすればいいと思う。

が、しかし。

わたしが出した「年賀郵便」と赤字ではっきり書いたお年賀カード(封書)を、12月29日に配達したことはどうかと思う。友達が、もう届いちゃってるよーと知らせてくれたのだが、何のために書かせてんだ。かつて、切手の下あたりの個所に「年賀」と赤字で書かないと、見て年賀状と一発でわかるものでもそのまま普通郵便として配達すると言い張った日本郵便の人間、どういうつもりだ、あ?

そして、ハガキが85円に値上がりするのも性格が悪いな。84円にしておけば切手を流用できるのに、絶対そうはさせない根性がにじみ出ていてすごい。だったら88円の方が素直なのに、85円にするあたり、日本郵便の底意地の悪さが見えてくる。物流からも撤退して欲しいぐらい。日本人って礼儀正しいけど意地が悪いらしいと言われているけど(どこでだよ)、日本郵便を見ていると本当にそうね、わかるわーという気がする。言葉は丁寧で穏やかでおとなしいけど、することに意地の悪さがにじみ出ている感じ。正月早々こんなこと書いている自分もどうかしているけど、こっちはされた方だから。仕掛ける方が意地悪いって。

あ、あけましておめでとうございます。

今年こそは良い年だといいなって、毎年思ってます。