似てても似てなくても

物まね番組って謎だ。

物まね番組はわたしが子供の頃からずっとあった。特番で決勝大会なんてやっていた。予選はどこでやっているのか知らんが、あの手の番組の存在意義って何だろうって考えてしまう。

物まねは、マネするなよーと嫌がっているクラスメートのしゃべり方や歩き方を真似て、殊更デフォルメしてみんなで寄ってたかって笑うというよくある子供の弄り(あるいは虐め)を彷彿とさせる。いいのかな、これ、いくら相手が有名人でも、というためらいがわたしの中で湧き上がる。テレビでやっているんだから虐めじゃないとか、やられた方もおいしいんだよとか、そういうこともわかるけど、モヤモヤする。例えば部長が会議でしゃべっている横で、そのしゃべり方や手の動きをそのままマネして同じことをするのだろうか?やらないということは、そういうことなのではないだろうか、と。自分の話し方や歌い方、身振りなどを真似をされたら普通は不愉快だと思うのでは。

そしてもう一つ。とってもそっくりに、声も寄せて、歌い方も真似て、歌手のダレソレさんにそっくりに歌っているとする。え、それ、オリジナルでいいじゃん、としか思わない。物まねの人、必要ある?としか思えないからである。

ユーミンにそっくり!って、ユーミンでいいじゃん。わー桑田佳祐みたい―って、桑田佳祐でいいじゃん。桑田佳祐に似ている人はいらないよね。桑田佳祐がいればそれで十分!!二人目はいらないと思う。更に言うと、ワンフレーズぐらいなら「おお!」というほど似ていることはあるし、全体を通して何となく似ているというのはあるが、「え?これがそっくり?いや、別にそこまで似てねえし」というものしか見たことがない。たいして見たことが無いから知らないだけかもしれないけど、最初から最後まで似てる~なんてレベルのものはないし、何ならそれお前の地声だろということもあるんだけど。結局、劣化版を見てもしょうがないよねということになる。たとえとっても似ていたとしてもご本人だけで十分だし、そしていつもそこまでハイクオリティじゃないのだから、どっちにしろいらないじゃないか感が強くなる。

子供の頃見た研ナオコの真似とか谷村新司の真似は、なんとも言えない悲しい気分になったし、本格派と言われて朗々と歌っている物まねの人にも「コピーは所詮コピー、しかも画素数の粗いコピーだな」と思ってしまうし、わたしにとって物まねは、「会社員がカラオケボックスでやるには楽しい余興だが、あれを芸としてテレビで見せられると萎える」というものなのである。友達同士で、内輪で、あら上手ねえ!似てる~と笑い合うもので、あれを生業にされるとキツい。

特にデフォルメして笑いを取りにいく芸は、やられた人、大丈夫?かなと心配になる。あれはTV芸なんだから全面的に否定するものでもないなあとは思うのだけど。不謹慎な笑いは好きだし(好きなのかよ!)、特にいい子ぶる気はないし、面白ければいいと思うけど、デフォルメしすぎると面白くないよね。だってもうそれ、似てないもん。やり過ぎは虐め感が強くなるし。

先日、何かの番組で若手の物まね芸人さんが紹介されていたけど、ほんの一瞬のほんのちょっとは似ていても全体はそれほどでもなく、単にもともと似た声質だったからかな?という感じなだけで、やっぱりなーと残念な気持ちと、まったくもってそっくりならそれこそ本人でいいから真似はいらないになって、なんだか矛盾する思いが渦巻いてぐーるぐるして、こんな駄文を書いている。

ムラブリ

タイの少数民族の言語が美しいと思って、惹かれて、研究者になった伊藤雄馬先生が書かれた本。面白い。とても軽くすいすい読み進められ、グイグイ引き込まれていく。同様に少数民族の言語の話を書いた「ピダハン」が難しくて苦悩しながら読んだことを思うと、あっさり読み終えることができてスッキリ爽やかである。

いや、最後はそんなに爽やかでもないのだが。

ムラブリ語には挨拶の言葉がなく、「ごはん食べた?」というらしいが、真面目に正直に答える必要はなく、適当でかまわない。暦がないとか、「ごめんなさい」という言葉もなかったりとか、なかなか独特というかシンプル。クレオール言語的な自然発生的な、あるいはジャーゴン的な言語なんじゃないかと思ったりする。町や村の生活にうまく順応できなかった男女が森に逃げて森でひっそり生活をするようになり、同じような人たちと何となく集団のようなものを形成していく中で、独特な言語ができていったのかな?というもののようだが、果たしてどうなんでしょうね。

伊藤先生は若くして結婚して子供も得ているのだけど、「ピダハン」のエヴェレットさんと同様に離婚している。そしてムラブリにどっぷりハマって、ムラブリのように生きていこうとする。これもエヴェレットさんと同じ。伊藤先生は靴下なんて履きたくない、基本冬でも雪駄で生活するようになり、ほとんどモノを持たない生活をしてしまい、最終的にはお母さんから受けついた山でドーム型の自律型シェルターを置いてそこで生活すればいいんじゃね?になっていく、なんかヤバい方に行っている気が。

言語の研究をしていたら、言語とは何かに行きつき、そして更にハマっていくと言語は生活や習慣などと切り離して考えることができず、そこに肩までしっかりつかって生きていきたくなるらしい。そういうものらしい。

先生が本書の中で「コーランも、神様が人間をバラバラにしたと書かれている。しかし、理由が異なるのだ。君たちがお互いをよく理解するために民族をバラバラにしたというのだ。言語学者として、この言葉にはとても深く納得する。」とあり、その説明の中で、おいしいと言ってもどうおいしいのか、一緒に同じものを食べていても、自分の言う「おいしい」と友達の言う「おいしい」は同じ部分もあるだろうが、完全に同じではないと書いている。言葉にしたとたんにその個別性が失われてしまうという。だが同じ言語を話していると、そのことに気づくことは難しい、と。でも日本語以外の言語で言われたら、どういう風に?何が?と知ろうとする気持ちが自然にわいてくるのだ、と(意訳すぎるけど)。そこが良いんじゃない、ということらしい。

わたしは子供の頃、英語で林檎のことをAPPLEというと知ったが、なんかしっくりこなくて、何かこう、モヤモヤしていた。留学した時にあの時のしっくりこない感がはっきりと理解できた。日本人が言う林檎は、赤くてこぶしより一回り大きなもので、基本皮をむいて切って食べるものだ。品種的にはフジとか千秋などの白っぽい粉を拭いたような赤い色の林檎。でもイギリスの林檎は子供のこぶし程度の小ぶりの大きさで、皮ごとそのまま丸かじりするもので、グラニースミスという黄緑色の林檎もポピュラーで(もちろん、赤くて下の方が黄色い林檎もポピュラーだ)、赤とは限らないのだ。大きさも違う。

便宜上我々はこういう感じの果物を林檎、APPLEと呼んではいるが、実は違う!同じものを指していないのだ!!あくまでも便宜上同じとしているだけだ!と。言語ってそういうもだと。だから離れたところからその言葉だけを知っていてもうまく使えないし、しっくりこないのよ、なんて思ったものだ。ただただ字面を追って、ただただ暗記して、ただただ文法を理解しても、それだけじゃ発動できないのが言語だとすると、日本人が中高6年間英語を学んでも話せないのは無理もないだろう。だからって留学しないとだめだと言うことではなくて、概要や基本的な情報や知識は学校や本でただただ暗記してそれだけでいいのである。それで十分だ。ただ、その言語にハマってしまったら、もう現地に行って、そこで浸って暮らすしかなくなる、生活もモノも家族も捨ててまで、浸りたくなるものなのである。

伊藤先生はそんなこと書いてませんけども。

わたしは京都寄りの関西弁と、何となく標準語と呼ばれているものと、ほんの少しの英語が話せるが、話すときのキャラが違う。関西弁を喋るときは完全に頭のおかしいオッサンだし、標準語で話すときはまともな女性だし、英語で話すときはめちゃくちゃビビりのびくついた人間になる。全ておっかなびっくりしている。使う言語で人格は変わるように、暮らし方や生き方、哲学も変わるものらしい。伊藤先生もすっかりムラブリにハマってムラブリっぽい生き方を望むようになってしまって、言語って怖い。エヴェレットさんが信仰までも捨てたように、伊藤先生もすべてを棄ててしまう。本書の最後の方では先生大丈夫かしら・・・と心配になってしまったよ。でも何度も言うけど、言語ってそういうものだ。

1つのことに夢中になって我を忘れて研究できるというヲタクの心が欠けているけど、少しだけヲタクなわたしは、こういう方々が羨ましくもあり、恐ろしくもある。残りの人生を何に捧げようかしらと迷うばかりで何も手がつかない。こういう方々は探さなくても、こうやってどっぷりつかっているのである。でもこんな風になっちゃうのに恐怖を感じてもいる。そこまでするのが絶対だとは思えないが、魅力的だ。「ピダハン」もう一回読みたいななんて思ってしまうほどに。

2月はドツボだったが3月もドツボで、4月に入ってもどうにもこうにもといったところ。心は晴れない。どうしたものかと考えあぐねてうろうろするばかり。会社帰りの春の宵のうち、家に帰りたくない。でも早く帰りたい。疲れた。眠りたい。でも帰れない。うろうろする。うろうろして同じところを何周してもどうにもならない。こんなときにはどこに行って、何を棄ててくればいいのだろう。わたしは何がいらないのだろう。

2月はドツボ、最悪な日々。

ムカつく人には「売春婦に梅毒うつされろ!」と呪いの言葉をはいていたら、気づけば世間では梅毒が流行っているという。オバハンの呪いの力の強さ、思い知るがいい!

デート代は男性が出してほしい、女の子はこんなにお金がかかっているとかというろくでもない論争もあるが、結婚したら男は幼稚園児レベル以下の家事能力しか有していない人がほとんどなので、だったら男は金でも出しとけやと言いたくもなるものの、その前の段階のデートで全額金を出せというのは言い過ぎかなと思ったり。まあ、わたしには関係ないのでどうでもいいのですが、当事者二人で話し合って決めてください。他人が口出すことでもないし、一般化する話でもないと思う。

ワイドナショー武田鉄矢たちが、もっと介護に若い人が参入すべきで、そっちを手厚くすべきだって言っていて、なんで未来のある若い人が死にかけのジジババのウンコの世話なんかしなきゃいけないんだよ、それより安楽死法案を通せボケ!安楽死用の施設を作る方が大事!と思ったりして、鉄矢は100歳まで生きる気満々かよーと恐怖したよ。年寄りを大事にというのは昔は長生きできなかったからで、こんなに長生きするようになったらありがたいわけがない。長生きは社会の迷惑と心得よ!

何でワイドナショーを見たかというと、松ちゃんが出る日で浜ちゃんのパパ活ニュースがあったから。でも松ちゃんはお休みだし、鉄矢が老害シュプレヒコールでうるさかった。唯一那須川天心が一服の清涼剤だったのが不思議。普通、那須川天心はゴロツキ側のはずなのに、一流の人は一流なのね。めっちゃマトモなんだから恐れ入る。那須川天心って、なんか茄子の天ぷらがのった天丼を思い起こさせて、茄子の皮をプニャンと噛んだ感じがお口いっぱいに広がった。

浜ちゃんのパパ活は不倫とは違うと思う。あれは素人風の女の子を派遣しているデリヘルサービス。素人風のデリヘル嬢に4回ぐらい会って事をいたしたけど、それ以上会いたくなるほどでもないからもう指名しなくなりました、という話だと思うんだけど。でも素人風デリヘルなので客のことをペラペラしゃべっちゃったんだろうなあ。プロは客のことを口外しない。芸能人だからって自慢げに話すのは素人。そこもやっぱり設定どおり素人風デリヘルなんだろう。松ちゃんがどれくらいえげつないことを言うのか期待したのに、残念。そして、素人風デリヘル嬢が確定申告したのかどうかが気になって眠れません。インボイス制度に対応して、この人は適格請求書発行事業者登録番号を取得するのかどうかも気になって眠れない。

もうちょっと楽しい話ができたらいいのだけど。2月はこの程度だぜ。

明けましたね

明けましておめでとうございます。

皆さまの一年も良い一年でありますように。

もちろん、わたしにとっても良い一年でありますように。

 

実は年末、引っ越しをした。

引っ越しは20年ぶりなので、世間の常識が変わっていてびっくりした。

お風呂場に浴室乾燥システムがついているなんて当たり前。暖房も入るから、お風呂場が寒い~なんてない。保証人も保証人協会に入るので、親きょうだいにお願いする必要なし。入居時の契約で出ていく時のお掃除代を確保したがるオーナーさん、激増。経年劣化も許さない世知辛さがたまらん。

引っ越し先は墓と寺と坂に囲まれていて、除夜の鐘がいい感じで鳴っていて、おおお風流~という素敵な大晦日を過ごせた。どこからか聴こえているボーンという独特な鐘の音は、実は毎日鳴っている。朝と夕、必ずボーンと鳴っている。そして朝6時に朝のお勤めが始まるのか太鼓のドンドコいう音がする。夜中に墓で猫がにゃーにゃ―鳴いている。寒いよーお家に入れてよーなのか、墓で猫鳴く。声はすれど姿は見えない。にゃーんにゃーん、にゃあああん、にゃーん、にゃーーん。もしかしたら幻聴かしら。

鬼太郎に似ているからキタちゃんね!と言われたのが懐かしい、墓場が似合う女としてはとてもいいところに引っ越したなと思っている。窓の下は一面墓。そして遠くに東京タワー。風流なり。

自己犠牲の味は甘美だが、実は猛毒

子供を車内に放置するのが最近のトレンド。子供の数が少ないので希少動物。ほぼパンダなので事故死をすると世間は大騒ぎ。わたしが子どものころは、「お前らガキの代わりなんかいくらでもいるからな。言う事聞かないとぶち殺すぞ」と言われていたので、時代は変わったなーと思っていたら、ひっそりと車内に閉じ込めて殺すんだから大人って油断ならない。ぶち殺すぞと言われて殴られるのと、そっと閉じ込められて熱中症になるのでは、どっちがつらいんだろうか。

そういうことじゃないのか。

ちょっと目を離したすきにベランダの柵をよじ登ってロープ無しのバンジーに挑む子供も増えてきて、世の中は混迷を極める。だけどいつの世も、子供はいらんことをして死ぬのがデフォルトである。わかっていてパイプに指を突っ込んで抜けなくなったり、昆虫採集セットの保存液?みたいなのを自らに注射したり、傘を持って木から飛び降りてみたり、バカな真似をして危険な目に遭う生き物である。自らではなく親に車に閉じ込められたらどうやって脱出するのか、教えて!プリンセス天功!!

さてところで、日本の男親が育児も家事もまったくあてにならなくて、ポンコツで、そのくせ稼ぎも悪いのは、その母親のせいであることに注視すべきである(もちろん父親もだが、特に)。彼女たちが子供をそういう風に育て上げたのだ。聞き分けのいい優しい素敵なママと思われたいがために、先まわってガキのご機嫌を取り、食事を作り、夢精した後のパンツも手洗いしてやったりしているから、なーんにもできない、なーんにも気づかないアホな成人男性が出来上がるのだ。そのアホが成人して結婚して子供を作るようになるから大変だ。こいつらに簡単な食事の作り方、洗濯の仕方、洗濯物の畳み方、お風呂やトイレ、フロアや窓の掃除の仕方、ゴミの捨て方を子どものころからきっちり教えていたら、こんなバカにはならなかっただろうけど。優しいママが甘やかすその先には、何もできないけどセックスと盗撮と人が作った食事に文句をつける事だけは積極的なバカが量産されるだけ。自分で料理をするとわかるのだが、お金と時間と能力がものすごく限られた中で食事を一日3回作るのは神業に等しく、インスタントや冷食、売っている総菜などを駆使するのは当然、時には「食べられないことはないがなんか薄らまずい」という味になるのも当然、そしてそれを作ってない奴に言われると腹が立つのも当然、ということがわかるようになる。体調のあまりよくない日に家事をするなんとも言えないしんどさなどを身をもって体験させるのも、親の役目なんじゃないのかと思うね。だけどママがかわいいかわいいって、不細工な息子を甘やかした結果が、「だって僕チン、土曜に嫁はんが仕事で居ないから子供の面倒なんて見たくないんだもーん」つって、保育園に丸投げしようとしたら丸投げもしないで殺しちゃうんだよ。

男の出来の悪さは、すべてその親のせいである。勿論母親だけじゃなくて父親もだけど。だいたいそういう家の父親は家事ができないバカが多い。だけど母親がそのダメな育児をはり切って主導しているから、今こんな風になっているのだ。

自分の子がかわいかったら、小さいうちから家事を手伝わせろ。子供は大人の真似をしたがる生き物だから、そのタイミングを逃さないで教えればいい。プチトマトのヘタを丁寧にとって洗う程度から始めて、「楽しいね~」って騙しながら教えてやれよ。朝ごはんのセッティングも子供にやらせたら判る、バターナイフは何本いるの?ジャムの瓶がねとねとしていると次の日蓋が開けにくくなったりするよ、使うとき気を付けて、冷蔵庫にしまうときも気を付けてとか、いいタイミングでみんなが食べに来てくれないとどんどん冷めて料理はまずくなるとか、な。家族の協力無くしておいしい食卓は存在しない、そういうのも教育の一環。

そういうことをしないで自己犠牲、自分だけが頑張れば素敵なお母さんと思われるというアホな幻想に抱かれていたバカ女に育てられた男は、結婚して夫になり父親になっても、相変わらずママのかわいいボクちゃん気取りで、子育ては妻の仕事!ご飯作るのも妻の仕事!金を稼いでくるのも妻の仕事!っつって、土曜日自分だけのんびり、平気でのんびり、ちょっと早めに保育園に迎えに行こうとすら思わない人間になるんだよ。

こんなダメ人間ばっかり育て上げたのが、俺らの世代。俺らの親の世代も似たところがあって、結局人類はこの程度。バカしかいない。ゆたぼんの親を非難しているやつも目くそ鼻くそだということに気づけ。わたしは気づいているので非難しないし、学校に行かないゆたぼんにも、「行きたくないなら行かなきゃいい」としか思わない。よその子が学校に行っても行かなくても、わたしには痛くもかゆくもない。それに、学校行っても行かなくても、結果は「まあまあバカな大人」にしかならないのだから一緒一緒。ただ、学校ってコスパがいいので、イジメに遭っているのでなければ行くのをお勧めします。無料で勉強教えてもらえる、格安で遠足、適度にクラブ活動等々、ほんとお値打ち。同じことを家庭でやろうとすると大変よ。なので、適当に休みながらでも行った方がお得。そして子供は似たような年齢の子供と遊ぶの好き。それが割と手軽に手に入るのが学校の良さ。毎日会っていると何故か警戒心が薄れてきて、ちょっとしたきっかけで友達になりやすい。そんな出会いの場を提供しているのよ、学校って。

まずは、日本のお母さんたちの「自己犠牲」のもとに成り立っている今の家庭の在り方を壊した方がいい。その考え方、クソ以外の何ものでもない。家事などは全て家族に振り分けて、みんなで家庭を回すということを考えるべきだ。今一番家事を担っている女性が意識改革をしないといけないってことに気づけ。なんでもやってあげるお母さんがステキなんて、幻想、てか、妄想。誰も感謝しないし、バカしか製造しない。

って、結婚したことがないババアが寝言ほざいてます。ごめん。

オジサンは、百害あって一利なし。

保育園児に性的な嫌がらせをした男性保育士の本名や顔写真はひたすら隠すのに、保育園児に意地悪をした女性保育士の写真や本名、はては学生の時のエピソードなどを晒すのはOKなのはなんとも不思議。このやり口がOKならば、性的嫌がらせをした犯人は本籍地まで晒すべきなんじゃないの?マイナンバーも晒したら?と思うけど、一切報道されず、こっそりこそこそまた別の街で保育士になって、幼児にいやらしいことをし放題。この女性保育士たちは二度と道を歩けないぐらいの目に遭っているのに、性的犯罪者はまたどこかで笑いながら乳幼児にいやらしいことをしているよ。

かつて、女性車両が導入されたころ、女だけずるいとか、あの車両は乗り換えのホームに近いから乗りたかったのに女だけずるい、という話があっちこっちから聞こえてきたが、誰一人「痴漢がいるせいだ!痴漢のクソ野郎!痴漢さえいなかったら俺たちは乗れない車両ができたりしなかったのに!見つけたらぶっ殺してやる!」とは言わなかった。潜在的に男は全員痴漢なんだろうかと、しばし沈思黙考したものだ。

とある女性部長がポンコツだったら、「これだから女は管理職に向かない」と女全員の責任にされる。ポンコツな男性部長なんて掃いて捨てるほどいるが、「これだから男は管理職にしちゃだめだ」とは言われない。なんでか知らんが、世の中はそんな風だ。

だから、家の近所の図書館で渡された「図書館ご利用の皆様へ」のアンケート用紙に、「女性作家さんの書いた恋愛エッセイみたいな女性が読みそうな本には一切無いが、男性が好んで読みそうな本にはよく鼻くそがついている。犯人はおそらく男性だ。捕まえて、二度と鼻くそがほじれないように、その指を切り落とせ!」と書いておいた。遠回りなわたしからの反撃だ!!!思い知れ!?