ムラブリ

タイの少数民族の言語が美しいと思って、惹かれて、研究者になった伊藤雄馬先生が書かれた本。面白い。とても軽くすいすい読み進められ、グイグイ引き込まれていく。同様に少数民族の言語の話を書いた「ピダハン」が難しくて苦悩しながら読んだことを思うと、あっさり読み終えることができてスッキリ爽やかである。

いや、最後はそんなに爽やかでもないのだが。

ムラブリ語には挨拶の言葉がなく、「ごはん食べた?」というらしいが、真面目に正直に答える必要はなく、適当でかまわない。暦がないとか、「ごめんなさい」という言葉もなかったりとか、なかなか独特というかシンプル。クレオール言語的な自然発生的な、あるいはジャーゴン的な言語なんじゃないかと思ったりする。町や村の生活にうまく順応できなかった男女が森に逃げて森でひっそり生活をするようになり、同じような人たちと何となく集団のようなものを形成していく中で、独特な言語ができていったのかな?というもののようだが、果たしてどうなんでしょうね。

伊藤先生は若くして結婚して子供も得ているのだけど、「ピダハン」のエヴェレットさんと同様に離婚している。そしてムラブリにどっぷりハマって、ムラブリのように生きていこうとする。これもエヴェレットさんと同じ。伊藤先生は靴下なんて履きたくない、基本冬でも雪駄で生活するようになり、ほとんどモノを持たない生活をしてしまい、最終的にはお母さんから受けついた山でドーム型の自律型シェルターを置いてそこで生活すればいいんじゃね?になっていく、なんかヤバい方に行っている気が。

言語の研究をしていたら、言語とは何かに行きつき、そして更にハマっていくと言語は生活や習慣などと切り離して考えることができず、そこに肩までしっかりつかって生きていきたくなるらしい。そういうものらしい。

先生が本書の中で「コーランも、神様が人間をバラバラにしたと書かれている。しかし、理由が異なるのだ。君たちがお互いをよく理解するために民族をバラバラにしたというのだ。言語学者として、この言葉にはとても深く納得する。」とあり、その説明の中で、おいしいと言ってもどうおいしいのか、一緒に同じものを食べていても、自分の言う「おいしい」と友達の言う「おいしい」は同じ部分もあるだろうが、完全に同じではないと書いている。言葉にしたとたんにその個別性が失われてしまうという。だが同じ言語を話していると、そのことに気づくことは難しい、と。でも日本語以外の言語で言われたら、どういう風に?何が?と知ろうとする気持ちが自然にわいてくるのだ、と(意訳すぎるけど)。そこが良いんじゃない、ということらしい。

わたしは子供の頃、英語で林檎のことをAPPLEというと知ったが、なんかしっくりこなくて、何かこう、モヤモヤしていた。留学した時にあの時のしっくりこない感がはっきりと理解できた。日本人が言う林檎は、赤くてこぶしより一回り大きなもので、基本皮をむいて切って食べるものだ。品種的にはフジとか千秋などの白っぽい粉を拭いたような赤い色の林檎。でもイギリスの林檎は子供のこぶし程度の小ぶりの大きさで、皮ごとそのまま丸かじりするもので、グラニースミスという黄緑色の林檎もポピュラーで(もちろん、赤くて下の方が黄色い林檎もポピュラーだ)、赤とは限らないのだ。大きさも違う。

便宜上我々はこういう感じの果物を林檎、APPLEと呼んではいるが、実は違う!同じものを指していないのだ!!あくまでも便宜上同じとしているだけだ!と。言語ってそういうもだと。だから離れたところからその言葉だけを知っていてもうまく使えないし、しっくりこないのよ、なんて思ったものだ。ただただ字面を追って、ただただ暗記して、ただただ文法を理解しても、それだけじゃ発動できないのが言語だとすると、日本人が中高6年間英語を学んでも話せないのは無理もないだろう。だからって留学しないとだめだと言うことではなくて、概要や基本的な情報や知識は学校や本でただただ暗記してそれだけでいいのである。それで十分だ。ただ、その言語にハマってしまったら、もう現地に行って、そこで浸って暮らすしかなくなる、生活もモノも家族も捨ててまで、浸りたくなるものなのである。

伊藤先生はそんなこと書いてませんけども。

わたしは京都寄りの関西弁と、何となく標準語と呼ばれているものと、ほんの少しの英語が話せるが、話すときのキャラが違う。関西弁を喋るときは完全に頭のおかしいオッサンだし、標準語で話すときはまともな女性だし、英語で話すときはめちゃくちゃビビりのびくついた人間になる。全ておっかなびっくりしている。使う言語で人格は変わるように、暮らし方や生き方、哲学も変わるものらしい。伊藤先生もすっかりムラブリにハマってムラブリっぽい生き方を望むようになってしまって、言語って怖い。エヴェレットさんが信仰までも捨てたように、伊藤先生もすべてを棄ててしまう。本書の最後の方では先生大丈夫かしら・・・と心配になってしまったよ。でも何度も言うけど、言語ってそういうものだ。

1つのことに夢中になって我を忘れて研究できるというヲタクの心が欠けているけど、少しだけヲタクなわたしは、こういう方々が羨ましくもあり、恐ろしくもある。残りの人生を何に捧げようかしらと迷うばかりで何も手がつかない。こういう方々は探さなくても、こうやってどっぷりつかっているのである。でもこんな風になっちゃうのに恐怖を感じてもいる。そこまでするのが絶対だとは思えないが、魅力的だ。「ピダハン」もう一回読みたいななんて思ってしまうほどに。