死は救い

安楽死についてのドキュメンタリー番組を見た(数か月前の話)。たまたま偶然、たまたま安楽死の話であった。最後に、本当に、お亡くなりになるところまで放送されていた。

安楽死というのは、医療が中途半端に発達した現代ならではの要望だと思う。昔は自己治癒力で治す以外に病気やけがを乗り越えることはできなかった。あるいは歯が悪くなって歯が減っていけばどんどん食べられなくなって、衰弱していくことも多かっただろうが今じゃインプラントだの義歯だのと補完してくれるものがあるので、衰弱していくことも許されない。自然に死ぬ方向に向かっていくことが難しいのが現代だ。かつては、若くてもちょっとした風邪がもとで肺炎とか、何か伝染性の病気が流行ればあっという間に感染して、そうなれば死ぬしかないのである。ところが、今は食べなくなっても点滴や胃漏があるし、寝たきりでもずっと寝たまま生かしてもらえる技術はある。だが、完璧に病が治るほど発達していないので、中途半端な苦しみを延々と与え続けられる。昔なら、もうとうに死んでいたのに、今は死ぬことも許されない、そんなことが実際にあるのである。

死はだいたい唐突に訪れるものだが、それを自己管理のもと行うのが安楽死。自殺と何が違うのかという問題で、宗教的にも倫理的にも、現代人は「自殺は悪いことだ!」というすり込みが激しいので悩むのである。死のうと生きようと大きなお世話だと開き直れればいいのだけど。

番組で取り上げられていたのは50代の女性で、病気で歩くこともできなくなり、そのうち意思疎通もできなくなり寝たきりの状態で過ごさなければならなくなるだろうという人が、意思疎通ができて、例え車いすでもなんとか移動できている間に安楽死をしたいと願うものである。スイスの専門機関にコンタクトを取り、今ならまだスイスに行くことができる、最後のお別れのあいさつを仲良しの姉妹にすることもできる、ということで、彼女は少し焦っている様子だった。病気がもっと進行してきたら、もう、ベッドがから動けないからである。日本の医療の常識では、まだ生きている人を放置して、自然に死ぬように放置もしてくれない。今しかないと彼女は思ったのだと思う。だが、それを認める姉妹の心は揺れる。お姉ちゃん二人は賛同してくれたが、妹さんはどうしてもそれが納得できず、どうしても安楽死を受け入れられず番組出演も拒否されていた。どっちの思いがより優しいとか偉いとかではなくて、これは価値観の違いなのでしょうがない。「身内なんだから、寝たきりになってもあたしたちに看病させてよ」という気持ちもわかるが、「身内にそんなことさせたくないし、されたくないし。申し訳ないし、こっちもいろいろ抵抗あるし」という彼女の気持ちもすごくわかる。排泄等の介助をされるのがすっごく抵抗があるようだったが、わかる、すごくわかる。排泄って、あれ、屈辱よ。わかっていても屈辱。わたしも14歳の時、病気で死にかけて入院した時、一回だけ排泄の介護を女性の看護師さんにしてもらったことがある。今でもなんとも言えない気持ちで覚えている。非常に、人間の尊厳にかかわる部分だなと思うよ。あれをずっと恒常的にやられるとしたら、心も折れる。もちろん、慣れるという側面もあるのだが。

まだもう少し生きていられるのにという思いもあるだろうが、本人にしてみたら、今がラストチャンスで、これを逃すと安楽死ができないのだから必死だ。賛同してくれた二人のお姉ちゃんとともに最後の力を振り絞ってスイスに渡り、最後のお食事を楽しむこともできたので、ご本人としてはよかったのではなかろうか。二人に見守られながらゆっくりと、自分で点滴のスイッチを入れるところは、何やら崇高な感じすらした。点滴の液体が体をめぐると、あっけない感じで彼女は永遠の眠りについた。あまりにも自然に、穏やかに、きれいだったのがびっくりした。眠っているだけのようで、美しすぎるほどだった。

わたしは、死は救いだと思っている。現世のつらいことや悩みや煩わしさから解放され、永遠の眠りにつくのだから救いだと。腰が痛いとか頭が痛いとか、お金がないとか子供がぐれたとか配偶者の度重なる裏切りとか、そういうものから一切解放され、眠っていられるのだから。そうは言っても、残される方はたまらないし、残される側のエゴから、もっと生きていてほしいと願ってしまう。なにも死ななくても、寝たままでもいいから生きていればいいじゃないのといいたくなるのである。だが、生きるのはその人の問題であって、他人の人生を生きられないのだから、無理強いはしてはいけないと考える。その辺の自分と他人との境界があいまいな人は、どうしても死なないでを強要してしまいがちなのではないかと思う。他人の人生は生きられないのだから、許容してあげるのも愛情であり友情であり思いやりだと思う。

生きていればいいことがあるとか、神様は乗り越えられない試練を与えないとか(というか、どの神様が言っているのかな?日本人はその辺がいい加減すぎて、たまにイラっとする。キリスト教信者でもなければろくすっぽ聖書も読んだことがない人が言うのは誠実さのかけらもない寝言にしか聞こえない。宗教観がない日本人は言っちゃいけないセリフで、無責任極まりないと思う)、いろいろ言う人がいるけど、特に病気で苦しんでいる人にそんなことを言う奴の無神経さには震えあがる。そんなこと、よく言えるな、と。どの面下げて健康体がほざくのか。おそらく、社会を営む上で簡単に死なれたら困るという残されたものの利益と、そして自殺なんかしなくてもぽこぽこと人がよく死んでいた時代なので、自ら死を選ぶ必要はないという感情から広まった教えだと思う。でも現代のように中途半端に死なない世の中になってきたら、その常識も変えていく必要があるだろう。

死んだら取り返しが聞かない。やっぱちょっ、やめ、というのができないからダメだよ、ちょっと辛いことがあったぐらいで死ぬなよというのは理解できるが、治らない病気や高齢による様々な障害が出てきた場合は安楽死を認めてあげないと、みんながつらい世の中になる。介護ぐらいしてあげると簡単に言うけど、それが何年も続けば肉体的にも精神的にも経済的にもキツいし、それが原因で身内が喧嘩したり絶交したり、挙句殺人事件に発展することもあるのだ。そんな不幸を呼び込まないためにも、安楽死は積極的に考えないといけない選択肢である。

誰も一人では生きられないが、誰も他人の人生も生きられない。コントロールできないのは生まれてくることだけで、死はある程度手中にあると、わたしは考えたい。突発的な事故や事件に巻き込まれたり、病気であっという間に亡くなることはあるだろうが、最終的には自分でスイッチを押せるのが一番いいと思うのだ。だが、難しい問題ではある。なので、例えば60歳以上の人に限って、重大な病気や認知症その他のご本人からの申請により安楽死を認める法律を施行してみたらどうだろうか。その後運用がうまくいくようであれば、年齢を40歳とか成人等、引き下げていくのはどうだろう。自分が自分のままで、自分らしくいる間に死にたいという気持ちを認めてほしい。

幸いわたしは家族や親族がほとんどいないので、安楽死を選んでも誰も反対しないだろうし、自分自身もいつ死んでもどうでもいいような気がしているけど、そのくせ、まだ死にたくないという不思議な気持ちが交錯している決心のつかない感じではある。いつ死ぬのが正しいのだろうと、答えが見つからない日々である。ただ一つだけ確実なのは、「死は救いである」ということだけ。