聖なるズー

動物性愛者と聞くと、なんだか変態みたいな、頭おかしいんじゃないかとか、動物虐待なんじゃないかとか、そういうネガティブな思いしか抱かなかったけども、「聖なるズー」を読んでみると、そんな単純な話ではなかった。

だいたい「俺は女が好きだから女とセックスする派」という人がいて、「ああ、じゃあこの人は女児を無理やり犯すのが好きな人なんだな」とは思わないように、動物性愛者だからって動物に無理やり性行為を求めるとは限らないのである。なんで動物が相手だというとすぐ、「無理やり、動物の肛門や性器に人間の性器を挿入する」と思いこむのか。そんな自分が無知すぎて情けなかった。

この本に書かれているズーフィリアの人たちは、「動物をパートナーとして愛する」けども、基本、「動物と所謂挿入を伴うセックスはしない」のである。愛して愛して愛おしく思い、添い遂げるつもりで仲良くしてスキンシップはするけども、犬の方が人間の性器をなめてくることはあるけども、人間がやりたくなって犬の性器に~という行為はしていない。獣姦を趣味としている人とは一線を画している。時にオス犬のマスターベーションの介助をすることはあるが、直接的な挿入のような行為は、まったくゼロとは言わないが、ほとんどないという。そんなことしなくても愛を感じ取り、心の結びつきはあるという。人間のように(特に日本人ではなくヨーロッパ人にありがちな)カップルなら、パートナーなら定期的にちゃんとセックスしないなんてありえない!愛しているならするはずだ!という常識もない。確かに、わたしも、すごく大事な友人のことは大切だし大好きだけど、セックスしたいと思ったことは一瞬たりともないように、大切で好きだという事=セックスではないはずだ。なぜいちいち好きだとか愛しているというとセックスするのかずっと謎だったが、その謎が少し解けそうになる。 

ただ、いくら愛していてもマスターベーションの介助はしたくないし、犬やその他動物に陰部をなめられるのも勘弁したいので、動物性愛者にはなれそうにないが、動物性愛者であると言われても、「え!?ほんとに?」とたじろぐことはなくなった。愛しているから愛おしいからということで、人間同士のパートナーなら性行為を求められることを考えると、それありきではない関係性は素敵だ。

とても興味深い良い本なので、迷っているなら読んでほしい。今までの勘違いが洗い流されて、何か踏み込んだ、何かに踏み込んだ感覚を得る。そして、動物に無理やりチンコを突っ込む性癖とはまた違う流派がいるということに気づく。愛の形にはいろいろある。愛の対象もいろいろある。そして性欲と愛は別だということも知る。

愛しているけどセックスはしないというのは、わたしの理想に近い関係性があるような気がしてきたが、だからといって動物性愛者になるわけでもなくて、愛とか情とか恋とかって、一体何なんだろう。何なんだろうねとぼんやり考える良い読書であった。