ブスの自信とはなんぞや

わたしはブスブス言われて育った。だから、世界でも256番目ぐらいのトップクラスのドブスだと信じて生きてきた。ところが、大学生ぐらいになって気が付いた。「あらやだ、わたしよりブス、いっぱいいるじゃん!」ということに(女に限らず男も)。だが更に気が付いた。金が稼げるレベルじゃなければ、普通の顔面は「ブス」であるということにも。かわいいとか美人だと言われてちやほやされるレベルでないのなら、それは「ブス」なのである。「普通」は「ブス」なのである。たまにかわいいと言われる程度も「ブス」の一種なのである。うぬぼれちゃいけない、ブスと言われていたのは、間違っていたわけではないのである。

山崎ナオコーラさんという作家さんの「ブスの自信の持ち方」を読んだのだけど、残念だけど途中でギブアップしてしまった。とにかくひたすらつまらない。面白くない。カレー沢薫さんのようにひたすらブスネタで笑わせてくれるわけでもなく、自虐ネタで「わかる~~」とひざを打つでもなく、あるいはブスについて深く語り、洞察力を見せてくれる、ある種の文化人類学的な見地があるでもなく、ただただひたすらに退屈な独り言が続くだけで、なんだろうな、この感じ・・・と途方に暮れてしまった。ブスって言っちゃだめだということを論理的に訴え、啓蒙するでもないし、考えさせられるエピソードがあるでもなく、「はあ、そうですか・・・まあ、それならそれでよろしいのではないでしょうか」という意味不明な相槌を打つしかない状態になる。なぜかと自分なりに考えてみたのだが、おそらく、それは、ナオコーラさんがブス歴が短いがゆえに覚悟がないからである!ということなのではないかな、と思った。

そこには書かれていたが、彼女は作家として名を上げて有名になるまで、ブスと言われたことがなかったらしい。だからびっくりしてしまったのだろう。なんで大人の女性に向かってブスなんて言うの?そんなこと言っちゃダメなんじゃないの?と憤りを感じたのだろう。いやいやいや、ナオコーラさん、あんた、今まで恵まれていたんだよ。先に書いたように、「普通」の容姿は「ブス」なんですって。普通なんだからブスって言われる覚えはない!というのは大間違い。お金を稼げるレベルの美貌が無ければ、うわ!かわいい!と言われるような容姿じゃなければ、それはすべて「ブス」なんですよ。言われないで大人になったなんて、周りの人に恵まれすぎ。で、わたしも検索しました、ナオコーラさんのお姿。想像通り、普通のお嬢さんでした。

わたしは子供の頃からブスブス言われ過ぎて、「はいどーもー、あなたより小マシなブスですよー」という慈愛に満ちた目で見下せるぐらいの精神力はついたし、「容姿で金を稼げない奴はブス」と悟りもひらいている。そんな人間からすると、ブスなんて罵りは、「おはよう」ぐらいの威力である。どうしたどうした、ナオコーラ?今頃何を言っている?と言いたくなる。わたしは社会人になってからも、先輩社員にブス呼ばわりされていたぞ。だがそいつ、わたしより不細工だったぞ。ちんちくりんのハゲとか、歯並びぐちゃぐちゃの鼻のつぶれた不細工に、ブス呼ばわりされていたぞ。だけどブスと呼ばれて何十年歴のわたしにとっては、そんなこと「おはよう」である。おやすみのブスも言われたら、「お前は暮らしをみつめるライオンかっ!」と突っ込みも入れただろう。不細工にブスと言われても、「顔も悪いが頭も根性も悪いのか、なんとも因果だなあ、おかわいそうに」と、思わず「お大事に」と手を合わせて拝みたくなるような事案で、マジで受け止めるような話ではない。ナオコーラさんは今までブスと言われたことが無いから、急にネットで、ブスのくせに!だの、ブスじゃん!などと書かれてショックを受けてしまったようで、そこが退屈の源のような気がする。ネットの書き込みの「ブス」なんて、自己紹介だ。「ナオコーラなんかブスじゃん!」というのは、書き込んだ当人の「俺は/私は、ブスです」というご挨拶なんだから、一冊本を書くほどでもない。

そういう受け流す人がいるから、許す人がいるから、他人のことをブスと得意げに言う輩が後を絶たないのよ!、女芸人をブスブスと言って面白がる奴がテレビでのさばるのよ!、と声をあげているのだけど、そういうことじゃないと思うのよね・・・とわたしは思う。

更に言うと、自分よりバカとか不細工に「ブス」と言われて何が悲しいのか、正直、わからない。理解できない。賛同できない。世の中の人間はほとんど不細工である。そいつらが「オマエ、ブスじゃん!」「ブスのくせに偉そうに!」と言ってきたとしても、そこに意味を見出す必要はないのでは?ブス同士でランキングをつけているのは、ウンコとゲロはどっちが気持ち悪いかとか、ウンコとゲロ、間違って踏みたくないのはどっちかと言っている程度である。一緒になって語り合ってどうすんだよ、とすら思う。

そして、うんと歳をとるとブスと言われなくなる。もう、ブスとか美人とかなんてどうでもいいほど、「性的な対象ではなくなる」からである。ありがたい。若いころ、男性から性的な対象で見られていることがわたしにはとても苦痛だったので、完熟オバサンとなってもうメスじゃないからブスかどうかなんてどうでもよい、興味の対象ではない!と排除されることがとてもありがたくて、今はとても清々しい気分である。ナオコーラさんはまだ若いので、まだセックスの対象として見られているので、だからネット上でブスと言われるのである。まだオスを惑わすメスと思われているので、同じメスからもライバル視されて「ブス!」と罵られるのである。そして傷ついているのも、まだオスをオスとして意識し、ブスってことは自分はもうオスに選ばれないの?という一抹の不安を感じるから、ブスという言葉にこだわってしまうのである。性欲もなくなると、モテたいという気持ちがなくなると、ブスなんて罵りはまさに「おはよう」である。

ナオコーラさんはブス歴が短いのでまだあがいている。これは普通、中学生高校生の頃にピークを迎えて、成人するころには悟りを開いて諦めもついているものである。「おう、ブスで悪いか、お前もブスやんけ、お前もお前も、そこのあいつもこいつも、みんなブスやんけ、なんやねん、ブス同士でブスブス言い合うって、アホか」という境地に辿りついていないと、人生がつらくなる。つらくなると、今の時代では美容整形に走って、迷走しだす。あるいは無茶なダイエットに走って、やっぱり迷走する。悟りを開かないと、残りの人生がつらくなるだけで、早く「諦め」という悟りを開け。何度も言うが、「金が稼げるレベルじゃなきゃブス」「ちやほやされるほどじゃなければ、それはもうブス」なのである。ちょっとたまに「かわいいね」とか、「イケメンだね」と言われる程度は、「ブス」なのである。デパコスのカウンターで「お綺麗ですよね」なんてお世辞を言われるのは、「ブス」だからである。そんな程度ではブスなんだから、この世に存在する者はほとんど全員ブスである。だからブスであることを忌避しなくてよいのである。

いちいち「ブス」と伝えてくれなくていいのにという気持ちはわかるが、他人の行動を変えることはできないので、そこをコントロールできると思わない方がいいし、自分よりバカの戯言を真に受けるのも、また愚かであると思っておいた方がいい。そして自分の見た目というものは、自分のものであって、自分では見えないものであることを意識した方がいい。自分じゃない人たちにとって、自分という人間を知る時の一番の入り口が見た目である。自分のものでありながら自分ではわからないもので(鏡などがないと自分じゃ見えない)、そして一番最初に評価されてしまうものである。見た目というのはそういうものである。そんな状況で、自分がコントロールできるのは「見せ方」しかないのである。自己プロデュースのうまさで、印象は変えられる。ブスでもブスじゃない風にはもっていけるのだ、自己プロデュースを間違えなければ。そこを研究する方が、「他人にブスって言うのは良くないと思う!」と正論を訴えるより効果的だ。他人に正論で説教しても、いい結果を生み出さない。

どこかの誰かにブスと言われても、マジで受け止める必要はない。楽しくはないし、不愉快だし、理不尽だし、そりゃムカつくけども、みんな、ほぼ全員、程度の差はあれ「ブス」なんだから、ブスに言われた「ブス」という罵りに意味などない。みんな違ってみんなブス。