そりゃないぜ!

わたしは6歳の時に実の母親に捨てられたことがある。なんていうとすごい話みたいだが、実際は、デパートに置き去りにされただけである。だが、バスやら地下鉄やらに乗って自宅から小一時間くらいある大きなデパートに置いて行かれたのだから、うちの母親のいい加減さも恐ろしい。小学校に上がったばかりで、お金もほとんど持っていないのに。うちの親は子供にあまりお金を与えない親だったので、ほとんど所持金がないことぐらいわかっているのにも関わらず、放置しているのだから大したものである。本当にあれは捨てたのかもしれない。ちゃんと帰ってきたので、舌打ちしていたのかもしれん。

わたしはその時のことをはっきり覚えている。母は、わたしと3歳年上の兄を連れて某デパートに行った。シーツやバスタオルみたいなものを買うつもりだったようで、わたしたち二人を9階にあったちょっと小物や結婚式の引き出物なんかを取り扱うお店の前に連れて行って、ここでこの辺のお店を見て待っているようにといった。そして母はお目当ての商品のある7階に行った。わたしも兄もまじめに待っていたが、一時間たっても二時間経っても迎えに来ないので、兄は「ちょっと7階に行って探してくる」と言って7階へ。しばらく待っていたら兄はちゃんと戻ってきて、「いない。お母さん、先に帰っちゃったみたい」と告げたのである。

当時のわたしは兄さえいれば(母親よりはるかに頭自体は良いので)大丈夫だろうと思っていたが、その兄だって9歳である。兄として頑張らなければならないし、あてにならないバカな妹を連れてプレッシャーもすごかったであろう。幸い妹は全く泣かないし、へらへらして呑気だからその点は楽だっただろうが。このデパートから家に帰るには地下鉄に乗り、降りた駅からバスに乗って帰る方法と、このデパートの近くから出ているバスに乗って帰る方法とがあった。お金は兄が持っていた100円硬貨一枚だけだったので(わたしは無一文)、バスで帰るしかない。当時、バス代が小学生は30円ぐらいだったと記憶する。二人で100円で帰るとしたらバスしかない。地下鉄に乗る余裕はない。しかし、その、バス停がどこかわからないので難しい。デパートの周りには似たようなバス停がいっぱいあって難しい。しかし兄はなんとかいつも乗るはずのバスを探し出してきて、ふたりでドキドキしながら乗った。昔のバスの運転手は怖くて、「このバス、ナントカというところ行きますか?」なんて子供は聞けない。聞いても、「ああ?!」と怒鳴られることもしばしば。おとなしくてグジグジした兄妹が聞けるわけもない。もしも間違っていたらどうしようと、兄は不安でいっぱいだっただろうが、わたしは、「お兄ちゃんと一緒だし、どうにかなるでしょー!」と思っていて気にもしていなかった。しばらく行くと見慣れた風景が見えてきて、「お兄ちゃん、このバスで間違いないよ。家に帰れるよ」と声をかけたが、兄の表情は固いままだったのを覚えている。

家についてドアを開けると、母は、「あんたたちどこ行ってたん?」とさして心配もしていないし、怒ってもいない。兄はホッとして玄関先で泣き出してしまった。人の心がわからない無粋な母は、「なんでちゃんと帰ってこれたのに泣くの?帰れなかったら泣くだろうけど、家について泣くなんて、あはははは、あほやなー」と笑うだけ。本当にガサツな女だよ。わたしは「ほら、お兄ちゃんさえいればいいのよ。他の奴なんかいなくても、お兄ちゃんさえいれば大丈夫じゃーん!」と思っていたが、兄が泣いたのは安心してホッとして張りつめていた緊張から解き放たれたからだろうが、実は他にも理由があったと、のちに推測する。兄は本気で捨てられたと焦ったのだと思う。それは、二度目だったから。

母は、「探したんだけど、何か見えなくって。あんたたち、先に帰ったと思ったのよねー」と言っていたが、兄もわたしも「絶対あそこのお店の前にいた!おかあさん、ひどい!」と抗議した。でも母はへらへらしているだけで、結局ごまかされた。あの当時は子供だったのでそれ以上追及はしないし、そんなものかと思ってしまったが、今思うと、おそらくこういうことだと思う。つまり、母はわたしたちを6階にあるおもちゃ売り場に置いてきたと思って、おもちゃ売り場に行ったのだと思う。でもいない。当たり前だ、9階にいたのだから。それで腹を立てて、「あの子たち!きいいい!親の言うことも聞かずどっか勝手に行きやがったな!覚えてろ!置いて帰ってやるわ!ざまあみろ、罰だ、罰!」と置いて帰ったのだと思う。うちの母は、とにかく人に罰を与えるのが大好きで、それも、やらかしたことより大きなひどい罰を与えるのが大好きだから、そういうことだと思う。罰や仕返しをしないと「損!」というような人なので、間違いない。ところがバスに乗ってふと思い出した。「あれ?そういえば、おもちゃ売り場に置いていくと、あれ買って~これ欲しいと言い出すからと思って、おもちゃ売り場には置いて行かなかったんだった・・・あ、しまった、フロア、間違えた」と気づいたのだと思う。でも、バスに乗ってしまったし、引き返すとまたバス代がいるし、降りてまた乗るのもめんどくさいし~ということで「まあいいや、お兄ちゃんがいるから帰ってくるだろう」と勝手に思って引き返さなかったのだと思う。絶対そうだと思う。わたしの推理はほぼ100%合っていると思われる。

なぜなら、わたしたちが帰ったときに怒らなかったからである。本当なら怒り狂う短気な母は、「あんたたち!どこ行ってたの!勝手にどっかに行くなって言ったでしょうが!勝手な真似をして!許さんぞ!ぎゃああああ」と言うはずである。それが、何かへらへらとして、あれ~?探したけど?ととぼけたことを言っていたのはおかしい。うちの母であれば、「勝手にどっか行ったんだから罰として置いて帰ったんだ!おまえら二人が悪い!謝れ!!」と謝罪まで要求するはずである(韓国みたいなオカンだな)。そうなっても、二人とも「ちゃんと9階にいたよ。お母さんは最初に9階のあのお店の前にいろって言ったじゃないか」と言い返せるのでまだいいが、一人だったら間違いなく「お前が悪い。謝れ」と、何も悪くない被害者なのに謝罪を要求されるに決まっている。とにかくうちの母親という人はこういう人なのである。それが、「あれ~?先に帰ったのかと思った~」なんてとぼけたことを言うのは、自分が勘違いして放って帰ったことに対して、少し気が咎めるからだと思う。

兄は相当ショックだったと思うがその後に何のケアもなく、はあ?いつまで言ってんの、しつこいなあ、家に帰れたなら文句ないでしょうに、みたいな感じで終わりである。キャンプ場でいなくなっても、うちの母なら「もういいです」と言って、ちょろっと探したらもう探さないだろう。お金がかかることもいやだろうけど、めんどくさい、疲れた、どうせ死んでるってとすぐ言いそうである。現に子供のころ、「最初からいなかったと思えば、別に何にも困らないし、淋しくもなんともない。自分は天涯孤独だと思えばなんてこともないわ」と得意げによく言っていて、お前らもガタガタ言うと捨ててやるぞ、私はお前らなんか最初から生んでないと思えばそれでおしまいじゃ!といわんばかりだったので、おそらくそういう思考の人なんだろう。

兄はその前にも、一応捨てられたとカウントしていい事件があったので(母が私だけを連れて家を出てしまったのだ。幼稚園だか小学校に行っていた兄の心中はいかばかりか。学校から帰ってきたらオカンは妹だけ連れて出奔ってキツイぞ)、二度目は本当にしんどかったと思う。兄にしてみたらトラウマだろう。この女、平気で捨てやがる!と確信したであろう。一度目はどれほど母が家を出ていたのか、わたしは小さいからよく覚えていないが、2日、3日程度ではないのは確かだ。兄が再び母と会えたのは、数か月後とかだったと思う。わたしもその間、しばらくよその家に預けられていて、そこのおじさんとおばさんがかわいがってはくれたが、所詮よそのオッサンだから気持ち悪いという理由でギャン泣きしていたのを記憶している。そんな自分勝手なうちの母なら、子供をデパートに捨てて帰るくらい朝飯前であろう。

もしも自分なら、「あの子たち、勝手に帰ったね」と勘違いしても、家に帰っても子供がいなかったら半狂乱になると思う。当然すぐさまデパートに問い合わせの電話をして、やっぱりデパートに戻ろうか、でもそうしているうちに帰ってくるかも、入れ違いになるかもと考え、右往左往するであろう。せめてバス停までは行ってみようかなとか、どうしたらいいのか、やっぱり警察にお願いした方がいいのかとか。とにかく気も狂わんばかりとはこのことだろうというぐらい、狼狽し、後悔し、家の前で意味もなくうろうろしそうである。やっぱり警察に連絡した方がいいよね、だよね、あああああ~~なんてことしちゃったのわたし~~という感じ。ところが、家で平然と晩ご飯の用意をしていたよ、うちのオカンは。わたしなら、途中で気が付いたらすぐさま降りてタクシーに乗って戻るけど、うちのオカンはドケチだから、「もったいない。お金が損する」とかって平気でデパートに置き去り。運よく変なおじさんにさらわれずに済んだけども、それって結果論。昔はそんな変な人はいなかったという話ではない。昔から子供をさらって殺す奴はいたし、子供を狙って性的ないたずらをする大人も今と同じぐらいいた。別に今、特段増えたのではない。子供が訴えたことを大人が真摯に受け止めて事件化するようになっただけだ。昔なら、うやむやにされていただけだ。平穏無事に、無事帰ってこられたけど、それはたまたまである。兄がまあ、賢い良い子だったのでバスを乗り間違えなかっただけだ。あの点在する多くのバス停から、たった一つの正解を見つけ出したのは、本当に立派だよ!

お兄ちゃんは、あの時立て替えたバス代をお母さんから返してもらったんだろうか。あの時どんな気持ちになったんだろうか。三度目は絶対だ、本当に捨てられるとびくびくして、本気のトラウマになっていたのだろうか。想像するだけでかわいそうだが、兄はとうの昔に亡くなっているので、もう今となっては聞くこともできない。親が子供にくれる最初のプレゼントは、絶対「トラウマ」だと思っているが、我が家に限っては正解だ。そして、うちの母の口癖は、「あんたって(わたしのこと)人の気持ちを考えないで、自分さえよければいいって人間よね」である。どの口が言うのか、本当に人の気持ちを考えない奴の破壊力、パねえ。