救い

先日録画してあった「せかほし」を見たのですが、サヘル・ローズちゃんが三浦君をイメージした薔薇「ストロベリー・アイス」というかわいい可憐な薔薇を紹介していたのですが、何にも彼の心を救うことはできなかったんだなあと、何も彼の心には響かなかったのかと、複雑な気持ちになりました。サヘルちゃんがティーンの頃4年ぐらいかけて編んだ絨毯を見せたときに、「今日の三浦さんの衣装にもあっていて、この絨毯が生まれてきた甲斐があります!」なんて、絨毯屋のやり手ババア風サヘルちゃんのトークに笑っていたんだけど、そんな言葉も何も引っ掛かりはしないのだなと。もちろん、それが素晴らしく人の心を打つというようなシチュエーションではなかったのですけどね。でも、そんな小さなことが救いになればよかったのにと、結果を知ってからごちゃごちゃ思いを巡らせているだけなのですが。

結局人は人を救うことなんてできないんだな。

どんな言葉も、どんな態度も、その受け取る人次第で、その人の心がどう受け取るかでそれが希望になったり、悲しみになるだけで、受け取る側の問題だと。自分を救うことができるのは自分だけだとわたしは思っていたけど、本当にそうだなと、自分を含めて人間の無力さを思い知るのです。

昔、とっても仲のいい従姉妹に、別に大したことじゃないけど何かを言ったら、「そういう良いことを言われると余計ムカつく」と言われたことがあって、当時は中学生ぐらいだったので、「それはまた新しい評価!」とびっくりしました。あと、若いころに付き合っていた人に、「ありがとうと言われたくてやってるの?そういうの恩着せがましいんだけど」と言われたときも、「おー!わたしには無い発想!すげーー」と思ったんですよね。こっちは礼が欲しくてやっているわけではない単純な行為でも、恩着せがましいという評価を下されることがあるんだな、ということに気づいたというか。そんな厳しい言葉も、実はわたしには救いだったりしたのです。ああ、そうだねと、わたしは納得したり、そういう評価も有り無しで言えば有りだなと思ったのです。それはわたしが思っただけで、正しいことでも普遍でも一般的でもないかもしれないのですが、そういう捉え方もあるよなあと変な感心を覚えましたし、そう思う自分の心がそういう評価をしているのであって、他の人ならまた違う事を思うので、本当に一筋縄ではいきません。

わたしは、兄が死んだことのほとんどの原因は、母とその不倫相手であり母の二番目の夫だった人のせいだと確信しているけども、実はわたしも関与はしていたという罪の意識はずっとあるのです。それはもちろん子供だったわたしが直接の原因でもなければ、わたしが悪いからということではないけれども、わたしという存在そのものや、わたしが日々ふるまっていた行動が兄の決定に影響を与えていたと思うと、なんともやるせない気持ちになるのです。ただ、10歳だったわたしが何か兄にアドバイスをしたりすることすら滑稽ですし、兄の苦悩や悲しみは知る由もなく、逆にわたしの苦悩を彼も知りもしないし、気づきもしていなかったでしょうし、どうにもならない流れだったのだとは思います。でも、わたしがもっと兄にとって良い影響を及ぼすように振舞っていたら結果は違っていたのかなとか、いや、関係ないだろう、そこじゃないだろうとも思うのですが、何かこう、自分にもできたことがあったんじゃないかとか、こんなことしたらうまいこといっていたんじゃないだろうかとか、あれがまずかったのだろうかとか、妄想レベルの逡巡をするのですが、どれもおそらく行きつくところは死を選んだ兄であろうとも思うのです。

三浦君がなぜ自殺したのかはわたしの知る由もないことですが、誰の言葉も誰の行為も、実は何の支えにもならず、ただ流れて消えていくようなものなのかなと、心に響くか響かないかはその人のその時次第ではないかと、受け取る側が救いの言葉と受け取るか受け取らないかで変わってくるだけではないかと。そう考えると、少しだけ自分の中の罪悪感が軽くなるようで、だからってどうにもなりませんが、自分の無力を知るけども、それは実は100%絶望ではなくて、自分にとっては救いだったりするのだなあと、何やら矛盾しているこんがらがった、実に自分に都合のいい解釈ですが、今のわたしにはそう感じられたのです。