6才のボクが、大人になるまで。

2時間45分の映画である。6歳のメイソンJr.君が18歳になるまでを、本当に10年間ほどかけて撮った映画である。かわいいメイソンJr.君が、なかなかの破壊力のある不細工に成長してがっくり来るが、逆にドブスのお姉ちゃんが番茶も出花、少しかわいくなるので笑える。お母さんはパトリシア・アークエットで、お父さんがイーサン・ホーク。さすがイーサン・ホークはかっこいいままだが、あとはなかなかの残念な12年後を披露してくれる。

これと言って大きな事件はないが、細かいことはちょこちょこ起こる。そして適当に流れていくのがリアルだ。意地悪な、でも見た目しょぼいいじめっ子に絡まれても、すぐ終わる。そんなもんだ、あの手のへなちょこはその程度。バカ友達とセックス自慢なんて、良くある話。すぐに童貞かよ、ホモかよというのがお決まり。オレは女とやったことがあるぜ、イカせたこともあるんだぜ、なんて誰も信じないクソ自慢をするのもティーンならでは。そんな愚かなティーンの時代も、大人になるのには大事な通過儀礼。さらりと大事件にならないですんでいくので、そこが退屈と感じる人もいるかもしれない。でも現実の世界では、本当にそんなにすごいことにならないことが大半なので、だからこそリアルと言える。でも映画なのにリアルって言うのも、そこは評価対象なのか?という疑問は残る。

お母さんの二番目の夫は酒乱で暴君。ぱっと見は紳士的でリチャード・ギアみたいで素敵だったのに、段々化けの皮がはがれてきてメイソンJr.たちは逃げ出す。せっかく仲良くなった彼の連れ子たちとはそこでおしまいだ。そして三番目の元軍人さんも、いい人だけど、だんだんこの関係性にフラストレーションがたまっていくのがじわじわと見えてくる。ビールを飲みながら不満そうな空気を漂わせている姿が、今のアメリカの現実なんだろう。そしてこの人自身はとってもいい人なのに、結局子育てで大変なお母さんに同情して、利用されたような形でフェイドアウトしていくのが悲しい。そういうつもりじゃなかったんだけど、つまりはそういうことだったという現実だ。この3番目の人には幸せになってほしいなと思わず祈るほど。自分はお父さんになるつもりなんてない、だけど共同生活をしていく上で、ルールやマナー、気づかいは必要だろ?と説くが、ティーンの子供にはウザい説教ジジイに見える。この埋まらない溝が、何をか暗示する。

メイソンJr.の実の父親はふらふらミュージシャンで、結局は目が出ず保険会社に就職。そしてこちらも再婚して赤ん坊ができて、その再婚相手の親のところにまでメイソンJr.もお姉ちゃんも連れて行くのだから、アメリカの家族ってフレキシブルで驚く。娘の結婚相手の前妻との間にできた子にまで、誕生日プレゼントを用意してくれて、ケーキまで用意してくれるのだから。しかもそれが、聖書にライフル!アメリカの田舎の人は信心深く、銃が好きという揶揄なのか、現実なのか。銃のことはアメリカを二分すると言っていいほどの問題だから、そこにも何やら埋まらない何か。そして元妻が引き取った子供なんか、憎しみの対象ですらある日本ではありえない交流だし、自分の夫に会いに来るガキなんぞ、邪魔でたまらないのが日本的な考えだろうに、とりあえず受け入れて仲良くするという精神は素晴らしい。銃を振り回すのに、この博愛精神はどこから来るのか。日本も離婚が増えてきたから、こういう考えになった方がいいけど、果たして、島国根性で、血統を大事にする日本人が、こんな真似できるのは何十年後なんだろう。

これと言って大事件がない映画が2時間45分続くので、退屈だと思う人もいるだろうけど、このダラダラしたダメな感じ、わたしは好きだ。「パターソン」という映画も似ているような気がする。ただ普通の日が続く。これと言ってすごい事件なんて全く起こらない。あの会話から、犬が盗まれるんだろうなって思っても盗まれず、最後に犬がすごいいたずらをしてパターソンをがっくりさせて終わるだけだ。でも、心地よくぬるく、わたしは好きだ。それに似た感じで、見ていて安心。なのに、妙に心がざわつく。そういう類の映画だ。

子供から少年、青年になっていく間にゲームばっかりしていたり、親に反抗的だったり、ダサい髪形をしていたり、ヘンなおしゃれに目覚めたり、あるあるというか、振り返ると黒歴史みたいなものがちりばめられていて、甘酸っぱい。あんな変なファッションを自慢げにやっていたよな~くはーー、みたいな。ニキビ面も、プロアクティブにGO!GO!と言いたくなる。それにしてもあの変な髪形、本人はご満悦だろうけど、傍から見るとダサいし汚らしい。あの価値観はいったい何なんだろうか。そういう表現もやっぱりリアルなのである。

お姉ちゃん役の子が、監督の実の娘というズルはちょっとひっかかった。なぜなら、お姉ちゃんだけ子供として似ている似ていない以前の、人種の違いがあって違和感がありすぎるからである。パトリシア・アークエットイーサン・ホークという白人の間に生まれたのにもかかわらず、少し肌が黒く、鼻が丸く、なんとも言えないちょっと不思議な顔をしているのは、1/4か1/8ぐらいは有色人種が混じっているからだ。そういう人種的特徴があるので、最初はお姉ちゃんはまた別の男の人との間にできた子かと思ってしまったほど。キャスティングとしておかしいから、こういう身びいきはやめてほしい。お姉ちゃん役の子は悪くないけど、見た目に違和感なのである。日本で言うと、唐沢寿明お父さんと小林聡美お母さんの息子がアントニーマテンロウ)だったら、あれ?と思うだろう。そういう感じなのである。親と顔が似ていなくてもいいけど、人種を超えると違和感が出るので、そこまでして監督の娘をごり押しするのはどうかと思う。

そしてお父さんのルームメイトだったミュージシャンの、雰囲気のあるジジイが、なんと、チャーリー・セクストンである。チャリ坊と日本では呼ばれた、デビュー当時アイドル的な人気を博したチャーリー・セクストン。こんなにいい感じのジジイになるとは思ってもみなかったが、そりゃあわたしも年を取るはずだ。若いころはちょっと気持ち悪かったけど、ジジイになった方がいい感じでびっくりした。こんなところでチャリ坊に再会するとは!そしてだらしない売れないミュージシャンという役も、ぴったりで雰囲気が良かった。

子供が二人とも高校を卒業したので、もう親の役目は終わり!とお母さんはお母さん卒業宣言をして、子供たちは戸惑う。日本の感覚では早いなと思うけど(せめて大学卒業までは、というのが日本的かな。あるいは、結婚するまでとか。でもそうすると、永遠に子供状態になることもあるので、日本的な親子べったりは危険か)、実家に置いておく荷物まで制限されて、追い出されるような感じは、お姉ちゃんがムッとするのもよくわかる。でも結局は愛されて大事に育った子供なんだなあと、うらやましくも思う。

映画が始まって30分ぐらいが経過して始まる二番目のお父さんのアル中問題が、一番の大問題で、あれ以上の衝撃も怖さもない。あとは普通の日々が続くだけで、お姉ちゃんが13歳で妊娠とか、弟が15歳で暴力とドラッグで逮捕とか、そんなこともない。こうして大人になって普通の生活を送っていると、お母さんの言う「もっと(人生は)長いかと思っていた」が、一番の真実なんだろうなあと思う。こんな風になるなんて、誰も思っていなかった、知らなかった。人生はそんなことばっかり。

だからリアルなんだろうけど、退屈なんだろうなと感じた。そんな映画。わたしは好きだけど、長いし、事件は起こらないし、ロマンティックもファンタジーもないので、見たらがっくりする人もいるかも。そんな映画でした。