己の人望のなさを嘆くがいい。あえて言おう、カスであると。

 最近ネットニュースで見たのだが、立川志らくのお弟子さんが、志らくの舞台(お芝居)の稽古を見に来ないからという理由で降格させられた話が面白かった。

志らくにしてみたら、自分の師匠が何かすると言えば気になって見に来たり、自分もちょい役でいいから出してもらえないかなとか、裏方でいいから何か関与したいなとか、一体どんなことをするのかなと興味を持つのが当たり前で、知らん顔するなんてどういうことだ?師匠に興味がないってことある?ということなんだろうけど、弟子からすると、はっきりおいでとも言われていないし、手伝ってとも言われていないのに、余計なことをするんじゃない、お前は落語家の弟子だろう?何を色気を出して芝居にちょろちょろ出ようと思ってんだよ!って言われるかもしれないし、なんて考えて、「逆に行ったらいけないのかと思った」と考えたからかもしれないなあと。

もっとも、前にもこんなことがあったらしくて、前にも同様に志らくは激おこだったらしいので、わたしの憶測は間違いかも知れないが、まあ、なんというか、この辺の心のすれ違いが非常に面白い。

わたしが志らくなら、「わたしって人望ないな。とほほ」と思って自分が恥ずかしいので、「来ないなんてひどい!おまえらクビ!」とTwitterみたいな世界発信するツールで泣きわめくなんて恥ずかしくてできない。自分で自分の誕生会を企画したら誰も来なかったみたいなもので、まーはずかしー、である。嘆くなら己の人望のなさであって、弟子の冷たさではないと思う。もちろん、自分は弟子の何かには必ず駆け付け、自分の師匠の何かにも必ず駆け付け、とにかく他人のためにいろいろ裏方仕事を進んでやっていたなら嘆きもわからんではないが。それでも、「いちいち来やがって、スパイかよ?鬱陶しいなあ」と思われることもあるので、適度に距離を保つのも大事。

「今度、舞台をやるから手の空いている人は見においで。稽古を見るのも落語の勉強になるよ」とはっきり言ってあげないと、「どっちだろう?どうなんだろう?」と考えて、考えているうちに時間が過ぎてあーあ・・・ということはよくある話。上の者から声をかけてやらないと、下の者からは声をかけにくい。特に志らくのような人は、テレビで見ているだけでも「めんどくさそうなところがあるな、こいつは地雷物件だな」と感じるのだから、余計じゃなかろうか。じゃ、そんなところになんで弟子入りしたんだよ!ってことになるけども、まさかここまで地雷だとは思ってなかった人もいるだろうし、落語の部分は尊敬しているということもあるだろうから、そこはなんとも。志らくはテレビでコメンテーターとしてオラオラしているので、その点に関して苦々しく思っている弟子もいるだろうし、芝居とか言われても困るなあ、好きじゃないんだよねえという弟子もいるだろう。落語っていうのは生活で、市井の人の生き方が現れるものなんだよ、だからテレビとか芝居とかダンスとか何でもかんでも興味を持ってやってみないといけないんだよ、市井の人の生活を理解できないといい落語なんてできないだよ!という考えもあるかもしれないけど、それも広げ過ぎると支離滅裂、意味不明になるわけで、じゃあ今どきの、これからの落語のためにと、PaythonやJavaScriptのプログラミング言語を理解できるようになってこいって言われてもね。師匠が好きでやっているテレビのコメンテーターの仕事や落語でないお芝居の舞台の話を、弟子に強要するのはあまりよくないと、個人的には思う。

わたしだったら師匠が何かやるなら見てみたいとか、わたしは参加できないの?と思うけど、それもまた師匠の性格やほかのお弟子さんとの関係性やら何やらで複雑に変わる。わたししか弟子がいなければ毎日いぬっころのようについて回ってキャンキャンしっぽを振るだろうけど、兄弟子やらなにやらいっぱいいて、その人たちから「お前、出すぎた真似をするんじゃねえぞ」という空気を感じ取れば遠慮するし、「そういうの、うちはやらなくていいから」と言われれば、素直にやらないし。そこに正解も何もない。ただ、師匠が「俺のことかまえよ!えーん、くっそー!かまってほしー!」と泣いているのだから、この場合は駆け付けるのが正解だったんだろうね。いやあ、難しい!

落語家はヤクザな商売で、大層なことを言える身分じゃないはずのわりに(あえて言う、身分と)、昨今は偉そうに意見する輩が出てきたな、などと思ってしまう。別に人格者でも何でもない芸人風情が(あえて言う、風情と)、利いた風な口を叩くようになったらおしめえよ。テレビ局が求めてくるのも悪いと思うけど、「あたしがそんなことを、人様のことをいろいろ言える身分じゃありませんのでね。遠慮させてもらいますよ」と言ってコメンテーターなんぞには出てこないのが落語家なんじゃないかと思う。天才枝雀師匠なら、コメンテーターなんてしなかっただろう。あいつはどーだこーだ、大麻なんかをやって仕事仲間に迷惑かけてるなんてよくないね、なんて言うようになったら、落語家としてはおしまいだとすら思う。しょうがねえなこいつは!ったく!と笑って済ませられるようなのが落語の世界のような気がする。それが社会的に正しいとか賢いとかではなくとも、落語ってそういう世界じゃないのかな、と。そしてそんな感じを漂わせていられるのが(実際そうであれという意味ではない)落語家さんの存在意義なんじゃないかと。

わたしは小学生の頃、ラジオで枝雀師匠の落語を聞いて大笑いをし、親が、「あんた、落語聞いて意味わかるの?」と驚いていたけど、クルクルパーのガキでも、なんの予備知識もなくとも、枝雀師匠の落語はめっちゃ面白かった。親に枝雀師匠の落語のカセットテープ(カセットテープだったのよ!)をねだって却下されたことも覚えている。そんな枝雀師匠にわたしがもしも弟子入りしたならば、師匠が「思い立ったからバレエを習うことにした」と言われれば自分もバレエを習い始めるだろうし、「これからはグローバルに活躍するためだよ」と言われたら一緒にロシア語だって習いに行くだろうよ。でも、実際弟子入りしたら「うわ、こんな奴だったのかよ」と思えば、落語の部分は尊敬していて稽古をつけてもらいたいから落語の弟子として居続けるかもしれないけど、師匠がバレエをしようとロシア語習おうと、「知らんがな」と思うだろうね。そう思う方が悪いのかね、思わせる方が悪いのかね。

どっちも悪くない。おそらく認識のずれ。でも、言わないと伝わらない。「察しろよ、師匠のことぐらいは!」という気持ちはわからないではない。ただ、察するのも限界があるし、勘違いもあるし、察しすぎてきりきり舞いというのもあるので、やはりそこは言ったほうが早いし正確。そして言っても伝わらないなら、自分の表現が的確ではなかったかもしれないという、一歩下がる気持ちは持っていた方が自分が楽。人のせいにするのが一番楽のような気がして、実はそうでもない。人を責めてキーキーしていてもしんどい。あー自分がこうしたらよかったかもーと思った方が実は簡単。人は変えられないけど、自分は自分で変えられるからね。馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできないと言われるように。

わたしも人望がないが、他人が人望がなくて泣いている姿は面白いものだなあと感心してしまった。面白いは言葉が悪い。興味深いものだなあ、と。認めたくないが自分自身の若くない過ちというものを。